出典:JOMON ARCHIVES(縄文遺跡群世界遺産保存活用協議会撮影)をもとにMeets古代史が作成
先日開催した「縄文勉強会」。
おかげさまで、たくさんの方にご参加いただき終えることができました。
また、ご参加いただいたみなさんに勉強会についてアンケートをお願いしたところ、たくさんの反響をいただきました。
本当にありがとうございます。
ご質問に関しては、参加者のみなさんには直接メールで共有させていただく予定でしたが、予想以上にご質問があった為、こちらのHPに記載することにいたしました。
講師のひろさんに質問の内容をお伝えし、答えをいただきましたので、以下にみなさんから届いた質問と、ひろさんからの回答をご紹介いたします。
【質問①】
なぜ環状列石を作ろうと縄文人は思ったのか?
祭祀・墓域のためにとは理解できるのですが、なぜあの形を思いついたのか?
イギリスにあるストーンサークルもサークル。
あの形が必然となる理由を知っていれば、教えて欲しいです。
【回答】
環状列石が何のために作られたのかについては、神聖な祀りの場として結界を設けたとする説、葬送儀礼を行うために設けられたとする説、配石を墓標とした共同墓地であるとする説、太陽の動きから一年の周期を知るためとする説、気候変動や天変地異を落ち着かせるためとする説、など諸説あって定まっていませんが、祭祀場であること、墓域を兼ねる場合があること、については概ね異論がないようです。
縄文人は円や曲線にこだわっていたという専門家の指摘がありますが、その専門家もなぜ円にこだわるのか、その理由はわからないとします。たしかに、環状列石だけでなく環状集落、竪穴住居なども円形で、貝塚や盛土も円形あるいは曲線の形に作られているものが多く見られます。また、縄文人は命や霊が大きく円環状に回帰・循環する円環的死生観を持っていた、とする説もあります。高い精神性の現れと言えますが、ストーンサークルを築いた古代イギリス人も似たような思想を持っていたのでしょうか。
私見は、縄文人が円環的死生観によって、あるいは円形にこだわって環状に築いたというよりも、四角やほかの形にする発想がなかったということではないか、と考えています。両手で土を盛ろうとすれば丸くなる、両手で穴を掘れば丸い穴になる、人が集まれば自然と丸い輪ができる。そんな感じで、広場にたくさんのお墓を作ろうとしたとき、周囲からよく見えるように、あるいは真ん中から全部が見えるように並べると自然と円になった。天体観測機能を認めるとしても、自分を中心に天空全体を見ようと思ってぐるりと360度回ったら円になります。そもそも区画を区切ってとか、四角に並べて、という発想がなかった。そんな単純なことではなかったでしょうか。
【質問②】
配石遺構と下部の土壙墓は1名分だったのか、複数人のものだったのでしょうか?
複数人の場合、埋葬のタイミングはバラバラだったのか、一括埋葬か?
年単位でタイミングが異なる複数人のお墓だったら、その場所が墓域として扱われていたことになるかな、と。
【回答】
例えば大湯環状列石では、野中堂で5基、万座で9基の計14基の配石遺構下の調査が行われた結果、11基の遺構下から屈葬であれば埋葬可能な大きさの土坑が伴うことが確認され、そのうちの1基で高いリン酸濃度が検出されました。このことから、配石遺構下の土坑墓は一人分だったと考えられます。ただし、すべての配石遺構が調査されたわけではないこと、土坑墓を伴わない配石遺構もあることなどから、配石遺構および環状列石について「墳墓説」と「祭祀場説」の二説が並列する状況が生まれました。その後、大湯環状列石に近接する一本木後ロ(あとろ)配石遺構群の調査において、ほぼ全ての配石遺構下に一人分の土坑が見つかり、さらに土器棺や副葬品と思われる石鏃が出土したことから、配石遺構は「配石墓」で、その集合体である環状列石は「集団墓」であると考えられるに至りました。
【質問③】
縄文時代は死者に対してどのような思想を持っていたのでしょうか?
例えば配石遺構と土壙墓がセットで出てくる場合
1.死者を懐かしみ、親しみを以て祭祀の場所としたものか。
2.死者を祖霊として信仰の対象としたものか
3.死者の怨念を鎮める為にしたものか。
2と3の場合、死者の霊には力が(現実に対して何らかの影響を与える力が)ある、という概念があったことになる。
【回答】
縄文人が死者を埋葬する際に屈葬を採用していたのは、胎児の姿を真似て死者の再生を祈るためであった、という考え方がありますが、乳幼児のときに亡くなるケースや死産が多かったこの時代、労働力・生産力を維持するためにも新しい生命の誕生は何よりも望まれたことだと思います。安産や子孫繁栄を祈るための祭器とされる土偶が作られたのも同じ意味合いではないでしょうか。縄文時代における死者に対する観念や葬送儀礼の目的は、死者の再生や新しい生命の誕生を祈るものであったと考えます。
時代が下るにつれて集落単位で共同の祭祀場や墓地が営まれるようになり、さらに複数の集落によって共同運営されるようになっていきますが、これは集団としての意識が醸成されてきたことの現れです。ただし、それが集団の祖霊を認識するところまで高まっていたかと言われれば疑問が残りますが、弥生時代に近づくにつれて祖霊祭祀の萌芽のようなものが見られたかもわかりません。また、死者が現世に害を及ぼすという発想はなかっただろうと思います。
【質問④】
貝塚や建物の中や環状列石などの墓域の変遷は、気候や精神性と関係するのでしょうか。
【回答】
縄文時代の墓域は、貝塚や貯蔵穴に埋葬、集落内に土坑墓、祭祀場と一体化した集団墓、祭祀場から分離された共同墓地、と変遷しますが、大きな流れとして、
①個人の墓から集団の多葬墓になっていくこと
②家族単位の葬送儀礼が集落単位になっていくこと
があげられます。時代が下るにつれて集団としての意識が醸成されて血縁関係以上に地縁関係を重視するようになり、集団を形成して相互に支えあうことで安全や安心を獲得しようとしました。また、集団が発展することで自らも豊かになれると考えました。これらの背景には、様々な気候変動や自然災害を乗り越えてきたことを通じて気候の変化をリスクと認識していたこと、文化が醸成されていく過程で、より高次で複雑な精神性を持つようになっていたことがあると思います。
【質問⑤】
田子屋野貝塚では貝輪で北海道との交易をしていたとのお話でしたがそのほかの遺跡も北海道や各遺跡との交易など行っていたのか知りたいです。貝輪は弥生時代なると支配階級のステイタスになって取引きが盛んになったようなので縄文時代における貝輪の位置付けや貝輪のように縄文から受け継がれたものが他にあるのかなども知りたくなりました。あと小牧野遺跡のミニチュア土器がとっても気になりました。祭祀遺跡とのことだったので何のために作ったのかなど知りたいと思いました。
【回答】
勉強会では東北と北海道の交易を示す例として、田小屋野貝塚の貝輪のほかにアスファルトや黒曜石などをあげましたが、具体的な遺跡や場所として例えば次のようなものがあります(一例です)。
・秋田県の烏野上岱遺跡などで生産されたアスファルトが北海道の南茅部町磨光B遺跡で出土。
・北海道の白滝産や赤井川産の黒曜石が三内丸山遺跡で出土。
・青森県の是川遺跡(中居遺跡)出土の漆塗り土器から北海道日高地方産の水銀朱(硫化水銀)を検出。
・秋田県北秋田市の漆下遺跡出土の漆塗り土器から北海道イトムカ鉱山から運ばれた水銀朱を検出。
・新潟県糸魚川の長者ケ原遺跡などで加工されたヒスイが北海道洞爺湖町の高砂貝塚から出土。
ミニチュア土器はお墓に供献するなど祭祀や儀礼に使われたとする説が有力ですが、子供のおもちゃという説もあります。また、土器製作の練習で作ったものとする考えもあるようです。
【質問⑥】
祭祀の関わるものが多かったと思いますが、この時代は何を祀ってたのでしょうか?
一万年も続いていた文化は神も変わらずですかね?
【回答】
縄文人が「神」を認識していたかどうかわかりませんが、自然や自然現象に対して畏敬の念を抱いていたと思います。狩猟・採集・漁労という生業はすべて自然に依存しています。食料となる動植物や水産物など自然の恵みに感謝すること、豪雨・豪雪・地震・噴火など自然災害が発生しないよう祈ることなど、万物に宿る精霊に働きかけたのだろうと思います。そういう意味では八百万の神を祀る行為とでも言えるでしょうか。
【質問⑦】
季候が安定し、同一圏内に定住し、人の移動が少なかったであろう草創期~中期に、異なった地域で、期毎に同型式の土器が出土するのはどうしてですか?
【回答】
移動生活がなくなって定住生活になったからこそ、そこに行けば必ず人がいることを前提にした交易が生まれたとも言えます。どこかで発明・発見された便利なものや皆が欲しいと思うものは交易によって広がり、結果的に同型式の土器が一定の範囲に広がり、また次の型式が発明されたらそれが広がる、ということが1000〜数千年単位で繰り返されたという理解をしたいと思います。縄文時代の時代区分は新しい土器が発明されて広がるまでの時間の幅と考えることができます。
【質問⑧】
今日の講義にあたり、その後の変化が気になり1964年の本を見て見ました。
最初に気がついたのは、時代を表すのにBCを使う事です。以前は何年前の表現でした。BCを何年前にするのには、2000年プラスしなければならないのですね。
又縄文は一万年前まで,これは確信的に書いてあります。その上アメリカに送って放射性炭素測定でも9500年前が最古と確定したと。
何故今は15,000年前が最古の縄文土器になったのですかね?
教えて下さい。
【回答】
「BC++++年」なのか「++++年前」なのか、縄文時代の年代を考えるときや書かれたものを読むときには本当に気をつけないといけません。学術的な文章では前者、一般向けには後者という印象ですが、どちらか決まっているわけではないです。博物館でのキャプション表記なども混在しています。私の場合、弥生時代や古墳時代になると「++++年前」はピンとこないですね。
たしかに、昔の縄文時代は「前期」「中期」「後期」の3区分だったと思いますし、縄文時代は1万年前と言われていたと記憶していますが、ここ数十年の資料の増加や研究の進展、測定技術の向上によって「早期」「晩期」が加わり、最後に「草創期」が加えられました。アメリカに送って9500年前が確定したとあるのは、1950年に調査された神奈川県夏島貝塚から出た土器のことだと思います。その後、1960年に長崎県福井洞穴から出た土器では約12,000年前となり、今回紹介した1998年に調査された大平山元遺跡の土器へとつながります。この大平山元遺跡の土器の年代測定によって縄文時代の開始(=土器の使用開始)が15,000年前(BC13000年)となりました。
【質問⑨】
小牧野遺跡の三角形岩板の意味するところ(想像でも)
環状列石の三重構造(一部四重構造)何か意味がありそうでしょうか?
再葬墓について、再葬される人物は有力者と考えていいのか?もしそうなら当時の有力者とはどのような人なのか?
【回答】
三角形岩板について。小さな穴があいていれば装飾品の可能性がありますが、そうではない。配石遺構とセットで出るケースが多いことや、意味不明な幾何学的文様が刻まれていることから、何らかの祭祀に関係するものとする解釈が妥当だろうと思います。また、ほかの遺跡からは円形や楕円形の岩板が出ているので、もしかすると目的は同じ(祭祀用具)としても形に意味があったのかもわかりません。小牧野遺跡では400個も出ていることから、祭祀の際に集落の住民が持ち寄って供献した可能性が考えられますが、そうすると三角形はここで祭祀を行う集落の住民共通のトレードマークだったのかも。あるいは、三角形岩板は津軽地域を中心に製作されたものとされるので、津軽に岩板製作を専門にする集落(岩板メーカー)があって、そこから売り込まれた三角形を大量に購入(物々交換)したのかもわかりません。
三重構造の意味づけを発掘調査報告書から読み解くと次のようになります。環状列石の外側で多数の土坑墓やフラスコ状土坑墓が見つかっており、2列目(内帯)と3列目(外帯)の間から再葬墓と思われる埋設土器が出土していることから、外帯周辺を一次埋葬域、外帯と内帯の間を二次埋葬域(再葬域)として、一次埋葬域で土坑墓などに埋葬、その後に骨を取り出して二次埋葬域に再葬する、という埋葬方法がとられたと推定されます。また、内帯内側の円形広場は埋葬に伴う葬送儀礼の場であったとされます。
再葬墓についてですが、周辺の土坑墓と比べると圧倒的に数が少ないので特別な人、集落のリーダー的な人物が再葬されたと考えられます。当時のリーダーとは弥生時代以降にみられる権力者や支配者ではなく、分業化された役割、例えば狩猟、漁労、土木工事、祭祀といったそれぞれの役割のリーダーであったとする説があり、頷ける考えだと思います。
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以上、みなさんからお寄せいただいた質問について、講師のひろさんにご回答いただきました。
他の人の質問って、新たな気づきがあったりしてお勉強になりますね。
たくさんのご質問をありがとうございました!!