はじめに
古代史を学ぶことが生きがいになりつつある私(ひろ)が、これまでの古代史旅の経験をもとにお届けする今回のテーマは「マニアな古代尾張」です。
実は古代史における「尾張」というのは、その聴き慣れた言葉ほどに解明されているわけではなく、尾張氏のことを書いた本もほとんど出ていない状況です。
今回はそんな古代の尾張を知る手がかりとして3つの古墳に焦点を当ててみました。
【A】ぜったいポイント | 断夫山古墳 |
【B】マニアックポイント | 尾張戸神社古墳 |
【C】せっかくポイント | 東之宮古墳 |
【A】ぜったいポイント「断夫山古墳」
名古屋市熱田区、熱田神宮のすぐ近くにある6世紀前半の前方後円墳で、全長151mは東海地方では最大規模とされますが、古墳時代後期としては全国でも屈指の規模です。
標高10mほどの熱田台地の縁にあり、古代には海岸線がすぐ近くまで来ていました。
伊勢・志摩と尾張・三河をつなぐ伊勢湾航路の拠点に築かれたとも考えられます。
かつては日本武尊の妃である宮簀媛命の墓ではないかと言われていましたが、現在では築造時期などから、継体天皇の最初の妃である目子媛の父、尾張連草香の墓という説が有力です。
東海最大規模ということからも、尾張氏の首長墓である可能性は高いでしょうね。
尾張の古墳と言えば断夫山古墳。これを押さえておかないと尾張を語れません。
まだ行かれていない方は必ず、すでに行かれた方も、学習目的であれば管理事務所の許可をもらって墳丘内に入ることができるようなので是非とも墳丘踏査にチャレンジしてみてください。
熱田台地には断夫山古墳のほか、南に数百mのところに全長74mの白鳥古墳、国道19号線を挟んで北へ数百mのところには高蔵古墳群を含む高蔵遺跡や尾張氏の祖とされる高倉下命が祀られる高座結御子神社があります。
交通量の多い所なので車に十分に注意しながら徒歩で見て回るとよいのではないでしょうか。
そうそう、熱田神宮の参拝も忘れずに。
【B】マニアックポイント「尾張戸神社古墳」
この尾張戸神社古墳を押さえている方はかなりの尾張マニアですね。
名古屋市守山区の志段味古墳群の東端、東谷山の山頂にある直径27.5mの円墳で、築造時期は4世紀前半とされています。
墳丘上に尾張戸神社が建っています。
この神社の祭神が、尾張氏祖神の天火明命、その子である天香語山命、十二世孫の建稲種命の三柱であることから、古墳の被葬者も尾張氏ゆかりの人物であることが想定されます。
一方、東谷山西麓にある全長115mの前方後円墳の白鳥塚古墳は、大和の行燈山古墳(崇神天皇陵)の1/2のほぼ相似形とされ、大和政権との繋がりが想定されています。
尾張戸神社古墳がこの白鳥塚古墳のすぐあとの築造と考えられていることから、4世紀前半時点で尾張氏が大和政権と繋がっていたことを示唆していると言えるでしょう。
尾張戸神社古墳のある東谷山は麓から150mほどの高さを登ります。
尾根に沿って中社古墳や南社古墳もあるので、ちょっとしたハイキング気分で行ってください。
体力や時間に余裕があれば東谷山西麓、庄内川の河岸段丘上に広がる志段味古墳群を順に巡ることをおススメします。
「歴史の里しだみ古墳群」として整備が行われ、ミュージアムもできたので1日では回りきれないかも。
【C】せっかくポイント「東之宮古墳」
愛知県犬山市の木曽川が尾張平野に流れ出るところ、いわゆる扇状地の要の部分にあたる白山平山の山頂にある全長72mの前方後方墳で4世紀前半の築造とされています。
三角縁神獣鏡4面を含む銅鏡11面、石釧・車輪石・鍬形石などの石製品、鉄剣・鉄刀などの鉄製品、などなど豊富な副葬品が出ました。
4面の三角縁神獣鏡はそれぞれ国内各地で同笵鏡が出ています。
山頂まで100mほど登ってチャート岩の切り通しを抜けると小さな祠の背後に古墳の存在が確認でき、墳丘周囲の遊歩道を歩くとこの古墳が前方後方墳であることがよくわかります。
墳丘上から一望できるこの一帯は尾張国丹羽郡にあたり、邇波氏の本拠地とされることから、東之宮古墳の被葬者も邇波氏の首長であろうと考えられています。
一方、東之宮古墳から南へ10キロほどのところに4世紀中頃の前方後円墳である青塚古墳があります。
全長123mは愛知県第2位です。
大縣神社の神域にある古墳で、神社側は祭神である大荒田命の墓としており、大荒田命は『先代旧事本紀』では邇波県君の祖となっています。
しかし、築造時期から考えると、東之宮古墳が邇波氏の初代王墓で、青塚古墳が2代目の王墓ということになりそうです。
この青塚古墳は史跡公園としてたいへん美しい姿に復元されているので、東之宮古墳とあわせて是非とも訪ねてみて下さい。
公園内にガイダンス施設があり、東之宮古墳出土の銅鏡11面のレプリカが展示されているので、こちらも見学することをオススメします。
志段味古墳群の様相とあわせて考えると、4世紀の尾張国は北半分が邇波氏の領域で南半分が尾張氏の領域だったと言えそうですね。
まとめ
今回の各スポットの内容からもわかるように、古代の尾張は犬山から知多半島に続く尾張丘陵やその西側の洪積台地を中心に栄えました。
現在でも海抜が数メートルほどの平地が広がる尾張平野西側の木曽川下流域は、古代には海面下あるいは湿地帯が広がっていたので古墳の存在もほとんど認められません。
そのため、畿内から尾張や三河へのルートは伊勢湾航路が重要な役割を果たしました。
古代の地形を想像しながらの古代史旅も面白いですね。