はじめに
古代史を学ぶことが生きがいになりつつある私(ひろ)が、これまでの古代史旅の経験をもとにお届けする今回のテーマは「マニアな南九州」です。
南九州と言えばかなり広範囲になりますが、今回は鹿児島県の薩摩半島に限定して、『古事記』『日本書紀』に記される天孫降臨神話から、ニニギノミコトが高千穂の峰に降臨した際に登場する笠沙岬にまつわる場所を紹介しましょう。
この日本の隅っこに行くだけでもマニア感が満載だと思います。
【A】ぜったいポイント | 瓊瓊杵尊笠狭宮跡 |
【B】マニアックポイント | 野間神社 |
【C】せっかくポイント | 高橋貝塚 |
【A】ぜったいポイント「瓊瓊杵尊笠狭宮跡」
高天原から高千穂の峰に降臨したニニギノミコト。
『古事記』には、
笠紗之御前に通り来て「朝日のまっすぐに射す国、夕日の照り輝く国、この場所こそ最も良い土地である」と言って大地に柱を太く立て、天空高く千木を上げて宮殿を建てて住み、木花之佐久夜毘売と結婚した
ということが記されます。
南さつま市加世田川畑にある「瓊瓊杵尊笠狭宮跡」は、まさにその宮殿のあった場所であるとされています。
現地に行ってまず目に入るのが「日本発祥の地」の石碑です。
さらには戦前の鹿児島県知事による「聖蹟顕彰記念」の碑も建っています。
そして一番奥まったところに「笠沙宮址」の大きな石碑。
敷地内は木々が茂り、地面には苔が生え、静寂な空気とともに、どことなく神聖な雰囲気が漂っています。
屋敷が建っていたと思われる石垣が残され、近くには御座屋敷と呼ばれる場所もあります。
神話は全くの創り話ではなく、何らかの事実や伝承に基づくものとの考えを持てば、この場所で何かを感じることができるかもわかりません。
実は、笠沙宮跡とされる場所がもう一か所あります。
南さつま市笠沙町の東シナ海に面した海岸沿い、野間岳への登山口にもなっている宮ノ山遺跡です。
こちらは住居跡やドルメンなどの遺構があるので人が暮らした現実感があり、登山道を登っていくと「神代聖蹟 瓊瓊杵尊御駐蹕之地」の碑も建っています。
また、「瓊瓊杵尊上陸地」の碑が建つ黒瀬海岸もすぐ近くです。
さて、どちらが本当の笠沙宮なのか。
それとも、、、 是非、ご自身で確かめてみてはいかがでしょうか。
【B】マニアックポイント「野間神社」
南さつま市笠沙町、野間岳の8合目に鎮座する野間神社は、もともとは野間岳山頂にあって、東宮に瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命の夫婦が、西宮に火照命、火闌降命、彦火火出見尊の三皇子が祀られていました。
創建年代は定かではないですが、伊勢神宮よりも古くて日本で最も古い神社だ、と地元の方から聞きました。
薩摩藩主の島津家の信仰が厚く、第10代藩主の島津斉興が、台風でたびたび倒壊した山頂の社殿を現在の地に遷座しました。
野間神社が鎮座する野間岳は薩摩半島の西側に突き出た野間半島にある標高591mの円錐状の山で、周囲の山々よりも頭ひとつ抜き出ていて、おそらく古代よりこの海域を航行する船にとっての灯台の役割を果たしたものと思われます。
そのためか、野間神社には古くは航海の守護神が祀られ、今でも地元の船乗りや漁業関係者の信仰を集めているそうです。
毎年2月20日に大祭が行われ、大勢の参拝者で賑わうそうですが、ここまで車で登ることができるのはありがたいですね。
野間岳のある野間半島からさらに小さく突き出た野間岬が『古事記』『日本書紀』で笠沙岬と呼ばれたところです。
野間岳山頂からは良く見えるそうなので、野間神社から頂上までの40分ほどの登山にチャレンジしてみるのも一興ですね。
【C】せっかくポイント「高橋貝塚」
ここは『古事記』『日本書紀』神話とは関係のないところですが、南さつま市に来たからには行っておきたい遺跡のひとつです。
縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての遺跡で、日本三大砂丘のひとつとされる吹上浜の南端にあります。
籾痕のある土器や石包丁が見つかったことから、南九州でもっとも早く米作りが行われた場所と言われています。
琉球産のゴホウラ貝を加工した腕輪の未製品も出土していますが、ゴホウラ貝の腕輪は北部九州の石包丁生産地である立岩遺跡からも出ていることから、高橋貝塚は琉球から貝を仕入れて貝輪に加工し、北部九州へ販売(貝輪と石包丁の物々交換)していたと考えられます。
さらには、日本最古と言われる中国産の鉄器も出土しており、琉球、北部九州、中国大陸をまたにかけた東シナ海域に広がる海洋交易の拠点であったと言えそうです。
遺跡は玉手神社境内の社殿裏にあり、現在はフェンスで囲われているために残念ながら立ち入ることができませんが、近くの「歴史交流館 金峰」では高橋貝塚のほか、南さつま市の様々な遺跡から出た遺物が展示されているので、こちらも必見です。
まとめ
ニニギノミコトが降臨したところは『古事記』では「筑紫の日向の高千穂の峰」で、『日本書紀』では「日向の襲の高千穂の峰」となっています。
その場所が北部九州であるという説もありますが、ここでは一般的な解釈に従いました。
いずれにしても、この最果ての地を訪ねて『古事記』『日本書紀』のその後の展開を思い浮かべると、日本の歴史がここから始まったのかも知れない、と思えてきます。
仮にそうでなかったとしても、現地を訪ねて何かを感じることが古代史旅の醍醐味ですね。