「邪馬台国」について1枚のスライドで表現していただく企画。
実際のスライドをこちらのページで公開いたします。
邪馬台国はどこにあったのか(1)
作成者:ひろさん
- 問い:邪馬台国はどこにあったのか
- 答え:畿内(大和)の纏向
- 理由:
3つの前提を設定して考える- 對馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国の位置は定説に従う
- 魏書は燕や高句麗と組む呉を背後から牽制することを意図した書
- 3世紀前半に北部九州から関東に渡って前方後円墳が造られていた
-
- 不弥国の位置 「東行至不弥国、百里」
→方角・距離が合致する場所・・・福岡県飯塚市「立岩遺跡」 - 投馬国の位置 「南至投馬国、水行二十日」
→方角・距離が合致する場所・・・出雲 - 邪馬台国の位置 「南至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月」
→邪馬台国を大和(纒向)としても合理的な説明が可能
- 不弥国の位置 「東行至不弥国、百里」
邪馬台国はどこにあったのか(2)
作成者:okachan(岡ちゃん)
- 問い:邪馬台国はどこにあったのか
- 答え:当初は、伊都国(平原遺跡) 東遷後 畿内(大和)の纏向
- 理由:・卑弥呼は公孫氏一族である。
【中国の正史である晋書(しんじょ)巻97四夷伝 倭国の記述】 唐時代:648年完成
名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 「名を卑弥呼という。宣帝が平らげた公孫氏なり。」との表現が晋書にはある。
→宣帝とは魏の将軍(司馬 懿 しばい)のこと。実際公孫氏は、魏の宣帝に238年に滅ぼされる。
邪馬台国はどこにあったのか(3)
作成者:ゴンさん
- 問い:邪馬台国はどこにあったのか
- 答え:吉野ケ里遺跡
- 理由:魏志倭人伝と古事記に書かれている
1末廬國は弘天神社(福岡市東区志賀島)
※末廬はマツラとは読めないので、末廬は松浦ではない。
末廬はムロと読み、岐須美美命のこと。
難升米も岐須美美命のこと。
漢委奴國王の漢委奴も岐須美美命のこと。
2伊都國は、当初は高祖神社(福岡県糸島氏高祖)、魏志倭人伝の時は舞鶴公園(福岡市中央区城内)に移動。
郡使往來常所駐は鴻臚館(福岡市中央区城内)。
曰爾支は多藝志美美命。
(3以降はスライド参照)