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邪馬台国はどこにあったのか「畿内(大和)の纏向」(ひろさん説)

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本ブログは、Meets古代史 の「邪馬台国プロジェクト」の一環として作成されています。邪馬台国プロジェクトは、一人ひとりの自由な発想を尊重し、それぞれの説を発展させることを目的としています。

邪馬台国はどこにあったのか(ひろさん説)

答え:畿内(大和)の纏向

理由

3つの前提を設定して考える

    1. 對馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国の位置は定説に従う
      →方角は30度~90度のズレを前提とする。距離は無視してよい
    2. 魏書は燕や高句麗と組む呉を背後から牽制することを意図した書
      →倭国を相応の規模の国と想定するのが妥当(cf.親魏大月氏王)
    3. 3世紀前半に北部九州から関東に渡って前方後円墳が造られていた
      →列島規模での政治統合の動きの真っ只中と想定するのが妥当

倭国は少なくとも西日本をカバーする広範囲なエリアとして想定するのが妥当

  • 不弥国の位置 「東行至不弥国、百里」
    ・奴国を起点に東を30~90度ずらして東北東から北方向の範囲
    ・距離は伊都国から奴国までと同じくらい(いずれも百里と記載)
    ・次の投馬国には水行二十日→不弥国には港がある→沿岸部か大きな川沿い
    →方角・距離が合致する場所・・・福岡県飯塚市「立岩遺跡」
  • 投馬国の位置 「南至投馬国、水行二十日」
    ・不弥国(福岡県飯塚市)を起点に南を90度ずらして東へ水行20日のところ
    ・水行20日で進む距離を以下のように想定
    西都原古墳出土の船形埴輪の復元船の速度が平均時速3.7km
    帆船の可能性や対馬海流の流れを考慮して実質的には5km
    1日の航行時間は10時間。櫂で5時間、風力と潮流のみで5時間
    結果、1日の航行距離は35km程度。水行20日間で700km程度
    天候や波の状況など様々な要因により半分の300~400km程度と想定
    →方角・距離が合致する場所・・・出雲
  • 邪馬台国の位置 「南至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月」
    ・投馬国(出雲)を起点に南を30~90度ずらして東南東から東方向の範囲
    ・東へ水行10日(150~200km)で丹後半島手前あたりで上陸
    ・様々な要因で纒向までの200~250kmを陸行で1カ月要しても不思議でない
    (悪路・山越え・川越え・大量の重い荷物・食料調達・休息・悪天候・・・・)
    →邪馬台国を大和(纒向)としても合理的な説明が可能

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