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邪馬台国はどこにあったのか「当初は、伊都国(平原遺跡) 東遷後 畿内(大和)の纏向」(岡ちゃん説)

本ブログは、Meets古代史 の「邪馬台国プロジェクト」の一環として作成されています。邪馬台国プロジェクトは、一人ひとりの自由な発想を尊重し、それぞれの説を発展させることを目的としています。

邪馬台国はどこにあったのか(岡ちゃん説)

答え:当初は、伊都国(平原遺跡) 東遷後 畿内(大和)の纏向

理由

  • 卑弥呼は公孫氏一族である。
    【中国の正史である晋書(しんじょ)巻97四夷伝 倭国の記述】 唐時代:648年完成
    名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 「名を卑弥呼という。宣帝が平らげた公孫氏なり。」との表現が晋書にはある。
    →宣帝とは魏の将軍(司馬 懿 しばい)のこと。実際公孫氏は、魏の宣帝に238年に滅ぼされる。

・公孫度(こうそんたく)の時代、倭国大乱を好機と卑弥呼を領土拡張を目的として北九州に派遣(公孫度189年遼東太守になる。)
・当初、伊都国に拠点を置いた卑弥呼が平和裏に倭国王となって北部九州を支配(190年頃)
・この頃の倭国の範囲は北部九州の30カ国。
・200年頃に初代卑弥呼が死去し、伊都国平原(ひらばる)遺跡に葬られる。
・初代女王の死によって倭国(北部九州)は政情不安に陥る。
・直後に2代目卑弥呼が立ったが情勢に変化なし。
・この頃すでに九州中南部にあった狗奴国と対立関係にあった。(国境は筑後川)吉野ヶ里遺跡は倭国最前線の防衛拠点。
・200年初め、2代目卑弥呼は倭国安定のために支援勢力を求めて東征(204年に公孫度が死去し、強力な支援者を失ったことも理由)
・超大型銅鏡(直径46.5cm内行花文鏡等)の威力をもって平和裏に畿内に入って拠点を設ける。
・その後、出雲勢力の協力を得ることに成功するが吉備は取り込めず。
・大和の纏向に邪馬台国を建設し、祭器を銅鏡、墓制を前方後円墳として出雲を含む倭国を統一。
・238年、魏によって公孫氏が滅ぼされる。
・239年、後ろ盾を失った卑弥呼は魏の攻撃を恐れてすぐに朝貢し「親魏倭王」の称号を得る。(魏への239年の朝貢は必然)
・狗奴国との戦闘が劣勢に陥る。
・247年、2代目卑弥呼がその責任を取って殺される。

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