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邪馬台国はどこにあったのか「周防灘沿岸の平野部」(ゆりおさん説)

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本ブログは、Meets古代史 の「邪馬台国プロジェクト」の一環として作成されています。邪馬台国プロジェクトは、一人ひとりの自由な発想を尊重し、それぞれの説を発展させることを目的としています。

邪馬台国はどこにあったのか(ゆりおさん説)

答え:周防灘沿岸の平野部

理由

要約
・末羅国・伊都国・奴国の距離間隔と同等の位置に、投馬国も邪馬台国もあると考える。
・大規模な環壕集落が複数見つかっている。山国川沿いには物見櫓と推測される掘立柱建物跡も複数発見されており、魏志倭人伝の記述と合う。
・集落跡や墓域から出土した考古資料は、政治、経済、文化、産業のいずれにおいても高い水準と分かるものが豊富。女王の都するところ、にふさわしい発展した大都市であったことが推測できる。
・東に海があり、その先にも倭人が住む立地が、魏志倭人伝の表記と合致する。

詳細
前提として、邪馬台国の記述がある景初2年(238年)は弥生時代終末期とした。前方後円墳体制は3世紀末からと考えている。

對馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国の位置は定説通り。對馬国から不弥国までが里数で、投馬国から日数に表記が変わった理由は、投馬国から先へは魏の使者が赴かず、倭人から聞き取りした情報の為かと。想像だが、交易などの用事を果たす行程も含めた往復の日数を、倭人が答えてしまったのかもしれない。方角は大雑把に捉えるのみとした。

戸数も比率のみを参照する。戸数を実数ではないとする根拠として、1戸を1家族5人で試算すると、当時の列島全体の推定人口を超えてしまう為。弥生後期の列島の総人口は、約60万人と推測されており、投馬国25万人+邪馬台国35万人の2国で列島全体をカバーしてしまう。比率のみを見ると、邪馬台国が最も大きく(7万戸)、次に投馬国(5万戸)、奴国(2万戸)が続き、あとは規模が小さくなる(4千、3千、千戸)。この比率で国土のサイズを推測し、末羅・伊都・奴、3国の距離感と同等の間隔で他の国も存在すると考え、右図の配置を想定した。

 

投馬国は筑後川流域とした。吉野ケ里や久留米市三潴(みずま)を含む範囲。高三潴遺跡では、ガラス製品、鉄製品や、大柱遺構の可能性がある遺構も検出されている。
吉野ケ里遺跡は説明するまでもなく大都市である。水行二十日は海路で考えた。博多湾を始点とし有明湾経由の筑後川に入るルートで想定。

ただし、伊都国・奴国から筑後川流域へ行くには、陸路が安全で早いはずなので、なぜ水行の記述のみなのか。この謎は一旦放置する。魏の使者が歩くのがイヤになって、船での行き方を訊いたのかもしれない。

 

邪馬台国を周防灘沿岸の平野部とした。「水行なら十日、陸行なら一月」と並行で解釈。博多湾から関門海峡を経由し周防灘へ船を進めるルート。行橋市から豊後高田市までの平野部に、多くの集落が見つかっている。下稗田遺跡(最古級の硯)、安武深田遺跡(弥生中期の鉄器製作跡(小鍛冶遺構))、十双遺跡(純度97.6%の銀の延板と楽浪式土器片)、小石原泉遺跡、唐原遺跡群、川部遺跡、東上田遺跡(環濠集落)など。

集団墓もいくつか見つかっている(徳永川ノ上遺跡、野口遺跡など)。集団墓の副葬品に、漢鏡の破鏡、鉄剣、ガラスを含む玉類が豊富に出ており、他地域であれば首長の次席クラスの墓に納められるであろう高級品がゴロゴロ出ていることに驚いた。

集落や墓域の規模と密集の度合い、出土品などから、 周防灘一帯が、政治、文化、産業、人口において、高水準にあったことを感じる。楽浪式土器は、列島全体でも限定された地点からしか出ておらず、楽浪郡との外交の痕跡と考えうる。

邪馬台国の中心部は、山国川沿いの下唐原遺跡と推測。平塚川添遺跡とほぼ同じ大きさの環濠集落と推定されている。この環濠の外側にも、川沿いに大型の掘立柱建物跡が複数見つかっており、大きさから倉ではなく、物見櫓と考えられている。楼観、城柵を備えている文献記述と合う。

東には瀬戸内海があり、「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」の記述とも一致する。瀬戸内海を通じた東方との交易も出来、かつ、唐原から山国川沿いに進むと、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した日田市へ通じ、日田から久留米市(投馬国・奴国方面)への移動も容易で、陸路・海路の結節点として、活発な経済活動が行われたことが想像できる。国道10号線沿いには、集落跡や墓域が複数見つかっており、山国川沿岸の広い範囲に一大都市があったことが考えられる。

ヒミコは個人名でなく、敬称のヒメミコのことと考えた。女性の名前を親族以外に明かす行為は、日本の歴史全体を見て、あまり見受けられない為。

次代のトヨは、邪馬台国のどこかにトヨという土地があり、そこの出身に由来すると想像。トヨは女王として親しまれ、いつしか広い範囲が豊の国と呼ばれるようになり、邪馬台国から国名が変わったりなんかして。と妄想すると楽しい。

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